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エル・グレコのイタリア時代

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グレコはスペインへ渡る

グレコがスペインを目指した理由は明確に分かっていませんが、1577年の春にはマドリードにいたことが記録されています。

イタリアからグレコが到着した時代のスペインは、レコンキスタでの勝利とコロンブスによるアメリカ海域での新世界の侵略、そしてカール5世の国王就任といったことで、スペインが急激に力を強めていた時代でした。

スペインでのエル・グレコ

仕事以外ではトレドに定住するようになりましたが、この時期のグレコは作品の査定額や技術的問題、図像上の問題でグレコ自身やグレコの顧客による訴訟が起こされたことが記録に残っています。グレコがトレドに向かった理由には、その当時、神のような存在でもあったミケランジェロをローマでコテンパンに酷評したことが理由だと言われていて、ミケランジェロを酷評したことでグレコはローマにいられなくなったという伝説が残るほど、グレコはミケランジェロの絵画に対して辛辣な評価を下しました。

絵画では辛辣な評価をしましたが、その一方でミケランジェロのデッサンに対しては絶賛しています。 当時スペインの芸術家たちは視覚芸術を「自由学芸」、またはアカデミックな知的活動であるという認識は広がってはいませんでした。そのためフェリペ2世の支援があったにもかかわらず、芸術家たちの社会状況はイタリアと比べてスペインではひどく劣ったものでした。

スペインでの初仕事として大聖堂から『聖衣剥奪』(製作期間:1577~1579年)の絵画、サント・ドミンゴ・エル・アンティーグォ修道院からは3つの祭壇衝立を依頼されました。

『聖衣剥奪』は、新約聖書に残るキリストが十字架に架けられる直前に衣服を剥がれる姿が主題になっています。新約聖書の原本はギリシャ語で書かれていたため、ギリシャの出身でもあるグレコは大聖堂の面々よりも新約聖書の原文をとてもよく理解していました。

『聖衣剥奪』は絵画の中心に座するキリストの外套を、鮮やかな色彩で描いきました。その当時のキリストの外套はそれまで鮮やかな色彩で描かれてはいませんでした。『聖衣剥奪』が完成した後に、『聖衣剥奪』の作品を受け入れた大聖堂は「キリストに対する冒涜」を理由に報酬を踏み倒そうとしました。その理由には、マリアが3人登場していること、キリストの頭より群衆の位置が高く描かれているといったことが、キリストに対する冒涜だと決めたのです。報酬を踏み倒されそうになったグレコは裁判で争いますが、大聖堂はグレコを異端審問にかけると仄めかしたりして、結局は調停案を受け入れました。報酬額は当初グレコが提示していた額の約三分の一の支払いにまで下げた形の報酬額となりました。3人のマリアは左から小ヤコブの母、原義の聖母マリア、マグダラのマリアと解釈されていますが、異論も多くなっています。

フェリペ2世に依頼された『聖マウリティウスの殉教』が、エル・エスコリアル修道院の聖堂を飾る祭壇画の一つとして描かれたましたが、1584年にヒエロニムス会士に受け入れを拒否されました。

これ以降グレコは次第に工房を広げていき、主な仕事として修道院、教区聖堂、礼拝堂の祭壇衝立の一括制作をしながら、トレドの町とその大司教区にあたる修道院や教区聖堂のための制作も引き受けるようになりました。この時期、様々な礼拝堂の依頼をエル・グレコ個人で結んだり、息子とエル・グレコの連名で契約を結んびましたが、それらの中には実現しなかったものもありました。

1603年、グレコはイリェスカスのカリダード施療院と祭壇衝立の制作契約を結びました。しかし1605年8月に、その評価額を巡って施療院と対立しました。施療院側は祭壇衝立全体で2436ドゥカートとして、『慈愛の聖母』の画中に描かれているひだ襟を付けた肖像画を、施療院にふさわしい人物像に描き変えることを要求しました。最終的に、1608年に1666ドゥカートがグレコ側に払われることで決着しました。

1612年から1614年にかけて、グレコは自身の墓碑のためにサント・ドミンゴ・エル・アンティグオ聖堂に『羊飼いの礼拝』を制作しました。現在この作品はプラド美術館に所蔵されています。

1614年3月31日に遺言状を作成して、その中でホルヘ・マヌエルを相続人、ルイス・デ・カスティーリャと修道士ドミンゴ・バネーガスをその執行人としたグレコは、1614年4月7日にカトリックの臨終の秘蹟を受けてこの世を去りました。

遺体はトレドのサント・ドミンゴ・エル・アンティーグオ教会の地下に保存されています。そしてエル・グレコの棺を、上から教会部外者でも見ることができます。

グレコの評価

1819年にスペインのプラド美術館が開館しますが、開館当時のプラド美術館にはグレコの作品は一点も所持されていませんでした。

現在、プラド美術館が所蔵するエル・グレコ作品の大部分は、ラ・トリニダード美術館から移管されたものです。その当時のグレコの評価は、ヴェネツィア派に分類される画家でした。

エル・グレコが再評価されるようになったキッカケは、パブロ・ピカソです。パブロ・ピカソがまだ若い頃に活躍していた時代のことで、その時代はモデルニスモでフランス語でいうアール・ヌーヴォーの時代に該当します。

グレコの作品はアカデミズムに対する反体制的勢力から、極めて前衛的な物として祭り上げられました。その原因は1898年に米西戦争が勃発してスペインが敗北したことです。スペインの敗北を受けて、今までアカデミズムとして組み立てられたスペインの栄光が去ったものとされて、スペインの栄光を再発見する必要に駆られました。

そこでグレコはギリシア人ではあるものの、キリスト教への信心があると考えられて、ある種のステレオタイプが作られました。その結果、グレコの画風は狂気の沙汰という理由や乱視説が謳われるようになりましたが、これらの誤った学説は1960年代以降の新発見で撤回されることになりました。

1960年代から1981年にかけてエル・グレコが自筆の注釈を施した書物が多く見つかっています。また1983年にギリシアのシロス島から『聖母の眠り』がフルネームで署名されたイコンとして発見されたことで、グレコの画業のルーツが証明されることになりました。そして2000年になってから、グレコがファルネーゼ家に突然の解雇に対する誓願が記された手紙も発表されて大きな話題になりました。


 
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