logo

エル・グレコのイタリア時代

logo_banner

エル・グレコのイタリア時代

エル・グレコは職業画家として「親方」の称号をクレタ島で受けていましたが、さらなる成功の場を求めて果敢な移住をしていきます。クレタ島カンディアから移住先として選んだのは、ヴェネツィアです。ヴェネツィアは東地中海での中継拠点でもあったため臨海都市出身の芸術家が、ヴェネツィアをめざす例は多々ありましたが、この中のひとりがエル・グレコでした。

ヴェネツィアへ渡る

1567年か1568年の冬までに、友人のギリシア系クロアティア人ジョルジョ・ジュリオ・クローヴィオの推薦を受けてヴェネツィアに渡りました。そして、盛期ルネサンスのイタリア人画家で、ヴェネツィア派で最も重要な画家の一人でもあるティツィアーノ・ヴェチェッリオに弟子入りしたか、または彼の工房の外でティツィアーノの絵画技法とその様式を学んだ可能性が高いと指摘されています。

ヴェネツィアに渡ったことで、ビサンティン方式の一切を放棄したという訳ではありませんが、色彩や遠近法、解剖学、油彩技法の使用などヴェネツィア・ルネサンス方式を習得していきました。他にもヴェネツィアで西欧流の技法や図像、地図製作の知識も習得していきました。

当時ファルネーゼ家は教皇パウルス3世を輩出してからというもの、美術の建築のメセナとして世間に広く知られていました。グレコは移住の際に、当時のスペイン人聖職者や人文主義者などがしばしば訪れていたアレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿の知的サークルと交流を持つことで、パラッツォ・ファルネーゼ(ファルネーゼ宮)に自由に出入りすることができました。また、そのためファルネーゼ家のカプラローラにあるパラッツォ・ファルネーゼの装飾にも参加したと考えられています。そしてエル・グレコは1570年までヴェネツィアに留まっていました。

1572年7月6日に、グレコはファルネーゼ枢機卿に突然の解雇についての釈明の要求と撤回の嘆願を請う手紙を出しているため、この頃にクレコが既にファルネーゼ枢機卿から解雇されていて、その上嘆願も届かなかったことが分かっています。そしてこの年には、サン・ルーカ画家組合に「ピットーレ・ア・カルテ」(pittore a carte:紙に描く画家という意味)として登録されて、加入していることから、その当時のイタリアの労働組合の構成員は親方に限られていたので、既にこの年までにグレコは親方として自分の工房を持っていたことが分かります。

ヴェネツィア派
ルネサンス時代の15世紀後半から16世紀にかけてヴェネツィア共和国とその周辺で活躍した美術の流派で、建築や彫刻など様々な分野でも見られますが、おもに絵画での流派のことをヴェネツィア派といいます。デッサンを重視したフィレンツェ派とは異なっていて、画面を色を使って構築していきます。色の投射によって明暗諧調を色彩で表現するのですが、色彩は絵画の伝統の誕生のきっかけにもなりました。そして流動的な形も特徴になっていて、流動的な形や線の曖昧さによって詩的な雰囲気を出し人間の感覚に直接訴えかける効果を追求しています。

そして画材としてキャンバスを壁に貼り付ける方法が使われました。これはヴェネツィア地方では湿気が多いためにフレスコが使えないということをキッカケにして、ティツィアーノ・ヴェチェッリオが油絵の導入を始めたともいわれています。

ヴェネツィア派を代表する画家

ヤーコポ・ベッリーニ(1400年?~1470年)…ヴェネツィア生まれ。ヴェネツィア派の創始者ともいわれている。

ジェンティーレ・ベリーニ(1429年~1507年)…ヤーコポ・ベッリーニの長男。1500年に聖十字架の奇跡(ヴェネツィア:アカデミア美術館)「聖十字架」連作が代表作です。

ジョヴァンニ・ベリーニ(1430年頃~1516年)…ヤーコポ・ベッリーニの次男。15世紀ヴェネツィア派の最大の巨匠でもあり、多くの聖母子像を残しています。

ヴィットーレ・カルパッチョ(1455年頃~1525年頃)…「聖ウルスラ物語」として知られている、9枚の絵画からなる連作が知られています。

チーマ・ダ・コネリアーノ(1459年頃~1571年頃)…ヴェネツィア派特有の澄明な光と色彩の感覚で、「受胎告知」「聖書物語」「玉座の聖母子と六聖人と二音楽天使」などが代表作です。

セバスティアーノ・デル・ピオンボ(1485年頃~1547)…ヴェネツィア派の配色とローマ派の堂々とした構図で有名です。

ローマへ渡る

1572年以降グレコの絵画はイタリアの影響が色濃く反映されています。グレコは主に個人の顧客向けの肖像画や小型の宗教画を描いていました。そしてこの当時のイタリア絵画の主流は、ヴェネツィアからローマに移っていったこともあったため、30歳を迎えようとしていたグレコも、年長の友人ジュリオ・クローヴィオの推薦を受けてローマへ移動して、1576年から1577年の間ローマに定住していました。

この友人ジュリオ・クローヴィオもまた,当初はヴェネツィアで親ローマ派有力貴族のグリマーニ家の世話になっていて,その後ローマでファルネーゼ家の寵を得ることになっていました。そしてクローヴィオはローマ到着直後のエル・グレコのために,アレッサンドロ・ファルネーゼ枢機卿にとりなしの手紙を書いて「ティツィアーノの優れた弟子」として推薦しています。グリマーニ家、クローヴィオ、ティツィアーノ、ファルネーゼ家という人間関係の連鎖がエル・グレコの移住を支えた枠組みだでした。

ローマでのグレコの主なパトロンはフルヴィオ・オルシーニでした。ローマの後には、エル・グレコは勉強のためにイタリア各地のパドヴァ、ヴィチェンツァ、ヴェローナ、パルマ、フィレンツェと旅を続けて、その後にスペインへ渡ったと言われています。


 
logo_banner