logo

エル・グレコが誕生する前のクレタ島

logo_banner

エル・グレコが誕生する前のクレタ島

ギリシャ人のエル・グレコは、クレタ島のエーゲ海(クレタ海)に面した港湾都市カンディアで生まれ、カンディアではイコンなどを描いていました。それからイタリアのヴェネツィアへ渡り、イタリア各地を放浪してからスペインへ渡ったと言われています。

晩年までギリシャ語で作品にサインをしていたエル・グレコ。グレコが誕生する前のクレタ島はどのような状況だったのでしょうか?!

クレタ島の状況

クレタ島の人々は、250年以上に渡って侵略者との騒乱に明け暮れていました。

1460年以降からヴェネツィア共和国がクレタ島の支配権を握りました。ヴェネツィア共和国が支配権を握ったとはいえ、政治、経済、軍事面でヴェネツィアの優越の確保への警戒は不十分でした。

ヴェネツィア人たちは、クレタ島を支配した初期の頃からギリシア正教会の支配を廃止して、聖職者の行動を都市国家の支配下に置きました。しかしこのことは、ギリシアと西方の宗教、歴史などの要因による歴史的憎悪を悪化させることになり、ヴェネツィアとクレタ島の相互の心理的な距離を深めることになりました。

そのため15世紀以前には、西洋とビザンティン(東ローマ帝国)の文化が混じり合うことは殆どありませんでした。クレタ島のギリシア人たちはビザンティン帝国の斜陽によって助けがなくなりつつも、自分たちの文化を保っていました。

15世紀末になるとラテン文化がクレタ島の都市部に入ってきました。ビザンティンの影響はとても色濃く見られていてそれは教育面でビサンティンの影響をみることができます。ビサンティンの居行くは教会と強く結びついていました。聖職者は大抵が家庭教師となっていて、修道院に教室が設けられました。もちろんそれはクレタ島でも同じです。

14世紀中期に入った初期には、クレタ島でギリシア語教育はとても充実したものになりました。そこで南イタリアのギリシア人たちがギリシア語を習うためにクレタ島を訪れました。15世紀へと時代が進む中で、クレタ島では学術的活動の増加が顕著になり、結果的に教育の質を高めることへと繋がりました。

しかしクレタ島の写本屋の重要性は受け入れられていませんでしたが、しかし多くの15世紀の学者と写本屋はクレタ島出身だったので、彼らは西側へのギリシア文化の拡散に重要な役割を果たしていきました。そしてギリシア文学の拡散も起きていき、公証人の大多数は中流階級でいくらかの職人もいました。

公証人のサインが複雑になっていることから推測すると、読み書きの知識と学校教育が都市部で普及していたことが考えられます。コンスタンティノープル陥落の数年後に、クレタ島ではギリシアとラテンの隔たりが縮小していき、相互不信は理解と協力に置き換えられることになりました。これはクレタ島とヴェネツィアの間で、いくつもの文化の接触と交換が増殖されることになり、さらに強化されることになりました。

16世紀からは生活様式が教義上の問題となって、議論の元にもなりました。ギリシア正教会のクレタ島の人々には、多少政治的ではありますが教会の認可のないカトリックの階級が存在していました。それは宗教を妨害なく実行したいヴェネツィアに保障されていて、クレタ島外の宗教者による叙任権を保っていました。

そして16世紀の初めには、自由な州学校の需要があることが明らかになっています。一般的に、ヴェネツィア人はクレタ島の教育よりも軍に資金を費やすことを好んでいました。教育よりも軍に資金を費やしたいと思う背景には、ヴェネツィア人が教育を制御なく広げることで強いギリシア正教会のインテリを作り上げることを拒んだとも言われています。結果教育の需要は、家庭教師によって賄われました。

16世紀のクレタ島で起きた学問の開花は、クレタ島の問題に相対したヴェネツィアの政策の挫折と関係しています。この時からカトリックのプロパガンダのヴェネツィアの援助は打ち切られて、宗教への寛容性が受け入れられました。クレタ島ではカトリックの人口は急激に減少しています。

16世紀末のギリシアは、ローマ教皇の機関から外されることになり、ギリシア正教会の生活に則ることが定められました。これによってラテン系の聖職者は権威が弱まることになり、カトリック教会消失の一因となりました。

16世紀のヴェネツィアは連邦政府の主要都市でもあったため、クレタ島は植民地でなく州となりました。このことによって、トルコの支配下になるまでクレタ島とヴェネツィアは同じ社会になりました。ギリシア正教会とカトリックは互いに詳しくはありませんでしたが、敵対精神が文化交流の妨げとなりました。

16~17世紀の文化の開花はビザンティンと西方の文化の調和によって生まれて、新しい環境によって可能となりました。ここでギリシア語が言語で力を持つようになります。このことが、ルネサンスで古代ギリシアが持ち上げられるようになった一因といえるでしょう。しかしラテンのアルファベットは流通していました。クレタ島の名声は、島の外にも広がることになり、16世紀中頃から田舎でギリシア正教会の学校が繁栄するようになり、最終的にヴェネツィア側もカンディアの学校を認めることになりました。大学教育を受けることは、社会地位においてとても重要だったので、16世紀の初めから多くのクレタ島の生徒たちが北イタリアに高い水準の教育を求めて移住することになりました。大学へ進学した人たちの多くは、そのままイタリアに残って学者となる一方で、他の国に行った者もいました。

1641年にトルコがクレタ島に上陸した後に、クレタ島の多くの住民がクレタ島を離れていきました。そしてクレタ島はその後トルコの支配下へと下ることになりました。

エル・グレコのクレタ島時代

1541年にエル・グレコが生まれた当時のクレタ島は、ヴェネツィア共和国の支配下にありました。エル・グレコはクレタ島の首都で港市のカンディアで生まれました。

クレタ島で過ごしていた当時の作風には、ポスト・ビザンティン美術の影響が見られます。ビザンティン帝国は1453年、オスマン・トルコによって国としての歴史に幕を下ろしましたが、旧支配地域ではビザンティン美術の伝統になっているポスト・ビザンティンが残っていました。

エル・グレコが生まれたカンディアでもポスト・ビサンティンの影響があったことは同じで、宗教祭事や図像学的にカトリックとは異なった世界が形成されていました。グレコはその影響を受けて育った面もあるといえるでしょう。

カンディアでは、後期ビザンティン美術の伝統を継ぐ画家となっていきましたが、それと同じ時期に独学で部分的にイタリアルネサンス美術の手法を取り入れたと考えられています。エル・グレコは22歳の1563年までには、画家として独立していたと思われます。25歳の1566年には、エル・グレコがカンディアでイコンの一種と見られる、金地に書いたキリストの受難図があります。そしてこの受難図をくじで売却するための査定の許可を求めているのが残されています。この時点でグレコは「親方」の称号を得ていました。


 
logo_banner